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プロローグ(1) 旅の話

 最長片道切符の旅に出ることに決めた。

 私は、これまで曲がりなりにも日本のあちらこちらを周遊してきた。自身の生活圏から離れれば離れるほどに、その土地に対する憧憬が深まっていき、それを充足するために旅に出ているといっても良かった。しかし、あちらこちらを旅することでいわゆる飽きにも似たような感覚を覚えてしまうこともしばしばであった。

 だから、ある土地に行ったなら次は別の土地へという一般的にもよく感じられる目的地の変更をするが、私に関して言えば、目的地間の移動に重きを置いている関係で、目的地を選別するのではなくルートを選別するのだ。例えば、大阪から東京へ行く場合、飛行機、新幹線、在来線、高速バスなど、種々の交通機関の媒体から選別することもあれば、在来線は在来線でも、東海道線経由、北陸線経由、中央線経由などさらに複数の経路を選ぶこともできるだろう。そんな旅の中で、単なる移動で満足するのではなく、その土地独特の食を楽しんでみたり、ときには温泉を楽しんでみたりと、味付けをするのである。そういう意味では、私の旅は、ルート選びのための旅であるといって良かった。旅に出る前にルートをあれやこれやと選別し、さらには乗る列車、附随して楽しみたいものを調べ上げる。タイミング良く列車が乗り継げるルート設定ができると、旅にも出ていないうちから、そのルート設定に満足を得、もう旅に出なくとも良いような感覚に襲われることさえある。そんな一連の作業を時刻表やガイドブックなどと睨めっこしているのが楽しかったりもする。何か芸術作品でも仕上げるような感じであった。

 ところが、そんな旅もあれやこれやと試してきて、些か新たな刺激を欲するようになってきた。エスカレートしている状態に入ったのである。そこで以前から一度はしてみたいと考えていた最長片道切符の旅を検討し始めたのである。

 最長片道切符とは、JRの路線で同じ経路を2度以上通らない経路に有効に発券された片道乗車券のうち、最長距離(運賃計算キロが最も長いものなど諸説あり)のものを意味する。同じ経路を2度以上通らないとは、すなわち一筆書きの要領で、路線自体を重複して通ってはいけないし(ただし、駅のないところを十字にクロスする場合などは、片道切符の経路として認められる)、駅をクロスして通過してはいけないなどの制約を受けることを意味する(ただし、終着駅として2度目に通る場合は有効。NHKの番組でも、一度、肥前山口を通ったあとに再び肥前山口に到達したところでゴールしている)。その制約の元に延々とどこまで(何キロまで)のきっぷが作れるのかを追究したきっぷだといえよう。

 最長片道切符は、これまで先人たちによってその当時の最長のものを算出してはそれを実践してきた、一つの歴史が確立されていると言って良い。有名なところでは、東大の旅行研究会のメンバーや、旅行作家であった故・宮脇俊三氏、レールウェイライターである種村直樹氏、そして数学的に裏打ちされたルートを確立して、なおかつ実践した葛西隆也氏、2004年にNHKの番組企画で旅に出ることになった俳優の関口知宏氏が挙げられる。また、その他鉄道ファンらを中心に意外に実践している人は多く(多いと言っても知れてはいるが)、その模様をインターネットで介するなどして紹介しているくらいである。

 ところが、私は以前から最長片道切符の旅というものに否定的であった。それは、私の旅のスタイルの一つであるルート選びを剥奪されたような感があり、いわゆる「私の作った旅」ではないと考えていたからであった。というのは、最長片道切符の経路というのは、その性格上、ある一定の条件の下では(ほぼ)一つしか存在しないとされている。とすれば、必然的にルートは選別のしよう(ここでは選択乗車や新在同一などというローカルな選別を言わない)がなくなり、それを選ぶ楽しみが失われるのである。

 しかし、一度はしてみたいと考えていたことも事実で、逆に言えば一度だけのことなのだから、ルート選びの楽しみは譲ってみても良いかと考えるようになった。実際、どんな感じで乗り継げるのかを、時刻表を捲りながら疑似旅行を開始すると、これが意外や自分の好みの路線を通ってくれることを知った。そういうことなら、ルート選択の楽しみは減殺(げんさい)されたとしても、許容できる範疇だと意識するようになったのである。そして、ルートは一つだとしても、その旅がどのような旅になるか、すなわち行程の組み方(どのような列車に乗り、どのような駅に降り、どのような時間帯を行き、どのようなものに触れるか)までは他者の場合と均質化するものではなく、旅をする人の分だけ用意されて然るべきであると自身を納得させんがために帰結した。私は、そこに「私の旅」を創り上げることで減殺された楽しみを減殺することとした。

 最長片道切符の旅に出ることを決心しつつも、それでもまだ乗り気ではなかった。まだいくつかの障碍(しょうがい)ともいうべき抵抗があったのである。最長片道切符の旅に出るということになれば、それ相応の時間が必要になるのである。始発から最終まで乗りっぱなしで毎日を最長片道切符の旅だけのために費やしても、一週間や十日では目的地に到達することはできない。さらには、減殺された楽しみを減殺するために行程には満足なものを得たいから、必要とする日程は益々必要になる。そうなれば、日の長い時期に出たいから、冬よりも夏ということになる。また夏休みもあるからこれを利用しない手はない。思案していろいろと調整を図ることにすると、何とか7月8日から自宅を出発できる見込みがたった。これで日程はクリアすることができたのである。

 日程がクリアできても、まだ気持ちの中で抵抗するものがあった。それは他者からの評価の問題である。「旅はかくありなん」という人がいる。「旅とは、これこれこういうものを旅というのであって、そんなものを旅とはいわない」と、ある種の旅の概念なりスタイルなりを固定していうのだ。しかし、旅を概念から見たとき、「これが俺の旅だ」といえばそれで旅となる。すなわち、旅をしている人が旅だと思えば、他者が「それは旅ではない」といくら強固に主張したところで、旅として確立することになるのである。それは旅というものが主観によって生み出された抽象的な概念に他ならないからである。

 ただ、いくら主観の産物とはいえ、途方もない旅をするとなると、やはり「旅はかくありなん」という言葉に耳を傾けざるを得ない。最長片道切符の旅となると、明らかに日常生活を犠牲にした上に成り立つので、日常を犠牲にしてまで旅をするのは社会的常識を逸するという批判を受けるわけである。しかし、その批判は的を射ている。確かにその通りなのだ。日常生活の犠牲の上に成り立つ旅は、やはり行き過ぎなのである。著名な評論家だった故・小林秀雄氏のいう「世捨て人(氏曰く、世捨て人とは、世を捨てた人をいうのではなく、世が捨てた人だとする)」となるのではないかという抵抗感があるのだ。では、しなければいいじゃないかということになるのだが、煩悩の固まりのような私の低俗な思考回路の中では、欲求の方がそのような抑制を容易く凌駕してしまうのである。すなわち、自己抑制の効かない阿呆なのだ。

 そんな阿呆を外に出してはならないだろうという第二の批判を受けることになるのだが、最早走り出した欲求は後戻り不能な状況にまできていた。また、私は、世間を熟知しているほど偉くもなければ、大した教養もない。今更、他者からの評価を期待したところで高々しれてはいる。そもそもその程度の評価しか得られないのだから、他者の意向を意識することもなかろうし、加えて、そんな些細な評価のために自己の満足感が減殺されては割に合わない。しかし、それは同時に自己の世界の中へ意識を埋没させていくということを想起させる。

 が、人間が主観的思考を持つ以上、その程度の差こそあれ、誰しもが少なからず持っている世界観というものではないだろうか。ならば、とことん阿呆になってみるのも一つの有り様なのではないか。この旅は現代社会に交錯する多種多様な価値観の唯の一欠片(かけら)に過ぎないのだと、そう自らに言い聞かせよう。かくして私は大阿呆になって、最長片道切符の旅に出ることを決心したのであった。

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